藍空ブログ

備忘録として。日々のことを綴っています。自己満足なのであしからず

「あなたはどちらかを選択できますか」その5 東野圭吾さん 『人魚の眠る家』

こんばんは。

魔の出張(前回のブログにて)のせいで全然読書ができておりませんでした。

 

久しぶりのレビューを書きます。

今回紹介するのは東野圭吾さんの『人魚の眠る家』です。

東野圭吾さんは言わずもがな、日本を代表する

作家さんで馴染み。多くの小説がドラマや映画で映像化されています。

人魚の眠る家』も昨年、篠原涼子さん主演で映画化されました。観てないですが(^^;;

 

あらすじはこちら

※若干のネタバレを含みます。

播磨和昌と薫子夫妻は、夫の和昌の浮気が発覚しで離婚寸前。そんな中ある日突然「娘が溺れた」との連絡が。。。

病院で2人を待ち受けていたのはほぼ脳死という残酷な宣告。

一度は脳死を受け入れ、臓器提供をしようとする2人だったが、別れの直前のある出来事をみて、提供を却下。驚くべき方法で眠ったままの娘との共同生活を始める。

 

ここからは感想

今回は感想というか私の意見を書かせて頂きます。というのはあまりにも今の現状にリンクする部分があり、この小説について考えられる点が多々あったのです…

 

詳細は省かせて頂きますが、実は今自分の大切な人の家族が重い病気でICUに入っています。

2019年になってからなので4か月が経ちます。

成功率が半分ない程の手術を受けて、今は透析をしながら体調の回復を待っています。

彼も心臓の病気(単身心房)で根本的な治療の為には移植の手術が必要です。

 

人魚の眠る家の作中にも心臓の病気で入院している子供のために心臓移植の募金

を行う話があります。

彼の場合は心臓の状態が良くない為、今は移植が出来ないのですが。

 

なのでこの小説を読んでいてとても辛かったです。状況は違えど葛藤する薫子の気持ちが痛い程分かりますし、臓器移植に対する日本の状況にも考えさせられる部分が多々ありました。

 

少し紹介させて下さい。

 

まず脳死とは脳の大脳(知覚、記憶、運動の命令を司る部分)脳幹(呼吸・循環の指示を行う)小脳(運動や姿勢の調整を行う)これらが全て動かなくなった状態を言います。

一方大脳は働かなくなったが、脳幹や小脳が動く状態を植物状態と言います。

 

脳死植物状態は共に大脳が機能していない為

話をしたり、聞くといった意思疎通が出来ません。

ただ、植物状態は自発呼吸ができることが多く、治療によっては回復の予知があります。

対して脳死は自発呼吸が出来ない為、呼吸器がなしでは心臓が止まってしまいます。

 

彼の場合は脳に異常はないのですが、心臓に負担を軽減する為に呼吸器をつけていました。

今は気管切開をしています。

 

この小説で問われている一番の部分は「脳死

人の死なのか」という部分です。

 

まず、世界では脳死を人の死としているケースが多く、脳死を持って心臓、肝臓、肺、臓器などの移植が日常の医療として確立されています。しかし、日本では脳死=人の死と受け入れることが出来ないケースが多い為、移植を受け入れるケースが殆どありません。

 

2015年、日本の提供数315件に対し、アメリカは79.3倍の24,980件でした。(日本移植ネットワークより)

 

日本でも近年臓器移植法が改正され、脳死した患者が臓器提供に関して明確な意思を示していなかった場合、家族の同意があれば臓器の提供ができるようになりました。また、それまでは認められていなかった15歳未満の子供からの臓器提供に関しても家族の同意があれば同じく可能となったのです。

しかし実際の数は増えていないのが日本の現状です。

 

作中に臓器移植の資金のための募金を行う場面がありますが、アメリカでの移植治療を受けるために2億円が必要とありました。

(調べた所実際にもアメリカで施術を受ける場合2億から3億円ほどかかるようです。

日本では1千万円程)

アメリカの施術が高額なのは、保険が適応外であること、専用機のチャーターが必要なことの他に、近年海外での移植治療が制限されている為日本人の渡航数を制限していることも関係しているようです。

 

自国で待っている移植希望者を後回しにしてまで他国の移植希望者を受け入れなければならないのか。と考えると仕方ない部分もあるかもしれません。。。

 

薫子は、移植希望者側の気持ちを知る為に

他人を偽って募金のボランティアに参加し、

脳死を認めず移植をしないという家族の考えに対して待つ側はどう思うか」といった真意を図ります。

 

脳死とは人の死なのか。本人が望んでいるかわからないまま生かし続けるのは家族のエゴなのか。身体は温かいし、呼吸も機器を使ってできる。ただ、話を聞いたり、声を聞くことは出来ない。これを死と呼ぶのか。

 

私はは作中の医師として出てくる進藤のこの言葉に答えがあったと考えます。

 

「今我が家に…うちの家にいる娘は患者でしょうか。それとも死体なのでしょうか。」

「それは、私が決めることではないと思います。」

「では、誰が決めるのでしょう」

「わかりません、たぶんこの世の誰もきめられないんじゃないでしょうか」

 

そう、わからないんです。

誰にも決めることができない。ただ、どう捉えるかは自由であるし、その気持ちを否定することは出来ない。と東野圭吾さんは伝えているように思えました。

 

読んでいて、途中 脳死を認めない日本は間違っている、脳死を認めない薫子は悪いの?ととても不安になりましたが、誰にも決めらない。

ある意味曖昧なこの回答に救われた自分がいました。

私は薫子の気持ちが凄くわかるからです。

 

状況は違いますが、術後意識がなく、呼吸器で呼吸をしていた時が彼にありました。

彼の身体に触れたとき、生きている。と強く感じたからです。

そして絶対に大丈夫、

今までの前例がないとしても可能性が0でない限り、生きている限り良くなる。

他人がどう思っても希望は捨てない。

と思ったからです。

 

作中では、どうしても脳死と認められない薫子は、

和昌の会社の部下でBMI(脳と機械とを信号で繋ぐことで生活の補助を行う)の研究を行なっている星野の力を借りて、『脳からの

指示ないならば作り出せば良い』と脳死状態

からの自発呼吸や、歩行、顔の変化(頬をあげて笑顔を作る)といった半ば禁忌と言える行動を取っていきます。

 

途中は狂気と言える行動もありましたが、薫子の気持ちはすごくわかりました。

 

考え方については賛否両論あるかと思いますが、1つ言えることがあります。

それはその人の気持ちになること。

その人だったら何を望むのか。

 

彼はもし、延命治療の措置の可能性が出た場合は望まないと言っていました。

「死ぬことより、死ねないことの方が怖い」

 

正解も不正解もありません。

ただ、彼はとても強く、彼に沢山のことを教えて貰っています。

今まであんまり遊べてなくて、時にはよそよそしくしまってごめんよ。

義理の兄として今でもやれることはあると思ってる。だから早く退院して遊びに行こうね。

 

 

レビューなのに暗い話ですみません。

直接は関係ないですが、脳死、移植について考えるきっかけとなりました。

このブログを読んで頂いた皆さんもこんな事があるんだと思って頂けたら嬉しいです。

 

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

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